さらば英国、超富裕層は欧州へ――だが本当に追い詰められるのは「一般の年金生活者」だ

先日、ある記事が目に留まりました。ヘッジファンドトレーダーのクリス・ロコス氏が英国を離れ、ギリシャに移住する見通しだというニュースです。ギリシャではかつて、自国の富裕層が相次いでロンドンに移っていたのに、いまは逆の流れが起きている。ギリシャの制度では、イタリアと同様、海外所得が15年間、国内課税の対象外になります。トルコに至っては、その優遇期間が20年です。英国の「4年間」という数字が、急に見劣りして見えてきます。

私は超富裕層でもなければ、ヘッジファンドとも縁がありません。ただの、1989年からずっと英国に暮らしている、66歳の年金生活者です。最初は「自分には関係のない、遠い世界の話」だと思いました。

けれども、少し調べてみると、この話は「私自身の話」でもあることが分かってきました。今日は、その顛末を、なるべく専門用語を使わずに書いてみたいと思います。

1. 「大脱出」の数字は、実はかなり怪しい

まず一つ、正直に告白させてください。この件を調べ始めたとき、私は「イギリスから富裕層が万単位で逃げ出している」というニュースをそのまま信じかけていました。しかし、出典を辿ってみると、様子が違いました。

この「大脱出」の根拠としてよく引用されるHenley & Partners社のレポートは、Tax Justice Networkという団体から「統計的な裏付けがなく、マーケティング資料に近い」と厳しく批判されています。2024年に「英国から9,500人の富裕層が流出した」と報じられた数字は、実は英国の富裕層全体(約306万人)のわずか0.3%に過ぎなかった、という指摘もあります。さらに驚くことに、Henley & Partners社自身が2026年版のレポートでは、移住者数の予測を出すこと自体をやめてしまいました。

「派手な数字」がニュースになりやすいのは、健康情報でも投資情報でも同じだな、と苦笑いしてしまいました。私は普段、真偽の怪しい健康情報を検証する作業もしているのですが、今回はまさにそれと同じ構図でした。

とはいえ、クリス・ロコス氏のような実名の移住事例が実際に報じられているのも事実です。数字の誇張と、個別の現実は分けて見る必要がある。では、私のような一般の年金生活者にとって「地味だが確実に効いてくる」変化は何なのか。それを次に見ていきます。

2. なぜ英国はここまで踏み込んだのか

2025年4月、英国は200年以上続いた「ノンドム制度」を廃止しました。私自身、1989年からずっと英国居住者ですので、この制度の恩恵を受けたことはありませんが、多くの海外出身者にとっては大きな節税の柱でした。

旧制度(ノンドム) 新制度(FIG方式・2025年4月〜)
対象 「本籍」が海外にある居住者 過去10年間、英国に住んでいなかった人(新規居住者)
海外所得 英国に持ち込まなければ、最長15年間非課税 最初の4年間だけ、持ち込んでも非課税
5年目以降 引き続き優遇 世界中の所得が英国課税の対象に
相続税 海外資産は原則対象外 通算10年居住で全世界資産が対象、出国後も最長10年追徴

出典:英国税務当局(HMRC)の公式ガイダンス「HS266 Foreign income and gains (FIG) regime」(gov.uk

なぜここまで踏み込んだのか。理由は一つではないでしょうが、大きく二つの力が働いているように見えます。一つは、財政の逼迫です。パンデミック後の歳出増、エネルギー価格高騰への対応、医療・福祉費の膨張――英国政府は、どこかで歳入を確保する必要に迫られていました。もう一つは、国内の格差への政治的な不満です。「海外に資産を隠しながら英国の生活インフラを享受している富裕層」への視線は、長年厳しさを増していました。

イタリアやギリシャが15年、トルコが20年という長期の優遇を用意しているのに比べると、英国の「4年」はかなり短く見えます。つまり、海外から移り住んだ人が、資産の整理や新しい生活の基盤づくりを終えるよりも先に、優遇期間そのものが切れてしまいかねない短さです。

石の上に置かれた茶色と青の砂時計

Photo by Aron Visuals on Unsplash
4年という優遇期間の短さを、砂時計のイメージに重ねてみました。

3. 本当の主役は「年金」だった

私が今回、一番驚いたのはここでした。ノンドム制度そのものよりも、**「年金への相続税適用」**のほうが、実は一般の年金生活者にとってずっと影響が大きいのです。

これまで英国では、使い切らずに残した年金(企業年金や個人年金の残高)は、亡くなった際に相続税の対象外とされてきました。「年金口座には手をつけず、子どもや孫に遺す」というのが、ある種の定石だったのです。

ところが2027年4月から、この年金残高も相続税の計算に含まれることになりました。英国の相続税は非課税枠(32.5万ポンド)を超えた部分に40%かかる仕組みですが、この非課税枠は2009年からずっと据え置かれたままです。物価も不動産価格も上がっている中で、枠だけが動かないのですから、持ち家と年金を持つだけの、ごく普通の年金生活者が対象に入ってくる可能性があります。

ただし、ここでも「派手な脅し文句」に流されないよう、公式な数字を確認しておきましょう。

英国政府の試算では、2027〜28年に年金資産を持つ約21万3千の遺産のうち、新たに相続税の対象となるのは約1万500件、全体の死亡者数の**約1.5%**とされています。 出典:gov.uk「Inheritance Tax — unused pension funds and death benefits」政策文書

「1.5%」と聞くと、思ったより少ないと感じる方もいるかもしれません。私も少し安心しました。ただし、これは「全国平均」の数字です。ロンドンや南東部のように不動産価格が高い地域に持ち家がある年金生活者は、この平均よりもずっと高い確率で対象になり得ます。私が暮らすウェスト・ミッドランズも、都市部の不動産価格は決して安くありません。

4. 欧州各国の「富裕層獲得合戦」

英国を離れる先として名前が挙がる国々は、それぞれ異なる特徴を持つ税優遇制度を用意しています。

国名 主な税優遇スキーム 特徴
イタリア 一律課税(Flat Tax) 海外所得に年間10万ユーロの定額課税で全額非課税。最長15年
ギリシャ 定額課税+投資インセンティブ 海外所得に年間10万ユーロの定額課税(最長15年)
トルコ 長期優遇+低相続税 海外所得優遇を最長20年間適用。相続税・贈与税も低水準
スイス 一括課税(生活費基準) 所得ではなく生活費支出を基準に税額を決定
モナコ 個人所得税ゼロ 所得税・キャピタルゲイン税・相続税が実質ゼロ

ここで出てくる「定額課税」について、少し補足します。通常、税金は所得の金額に応じて増えていきますが、この制度では海外所得が実際にいくらであっても、毎年決まった金額(イタリアやギリシャなら年10万ユーロ)を納めさえすれば、それ以上の税金はかからないという仕組みです。つまり、海外所得が数百万ユーロある人ほど、この定額制度で得をする幅が大きくなります。超富裕層向けの制度と言われるのは、このためです。

税務アドバイザーが指摘するように、移住先は税率の低さだけで決まるわけではありません。優遇の適用期間、相続・法務の透明性、そして金融インフラや医療・教育水準といった生活の質――この3つを総合して判断されています。

緑の屋根の石造りの家、周囲を緑に囲まれた英国の田舎の風景

Photo by Hugo Kruip on Unsplash
コッツウォルズの石造りの家。多くの人が守ろうとしている、英国での暮らしの象徴です。

5. 英国と日本、相続税の比較

ここで一度、日本の制度と並べて考えてみたいと思います。

🇬🇧 英国 🇯🇵 日本
相続税の最高税率 40% 55%
海外所得の優遇期間 新規居住者のみ最初の4年間 原則、居住開始から全世界課税(非永住者の送金課税に一部例外あり)
海外に住所を移した場合 通算10年居住で、海外の全資産にも相続税(出国後も最長10年追徴) 過去10年以内に日本居住歴があれば、海外の全資産にも相続税(出国税もあり)
主な流出先(報道ベース) イタリア、ギリシャ、スイスなど シンガポール、ドバイ、マレーシアなど

面白いのは、「入り口の優遇は英国の方が短い」のに、「出口(国外転出・相続)の網の目は日本の方がずっと細かい」という点です。日本の出国税は、まだ売っていない株の含み益にまで課税するという、かなり徹底した仕組みです。どちらの国も、「税金逃れの隙間を塞ぐ」方向に動いているのは共通しています。

私自身、1989年に日本食レストランで働くために渡英して以来、英国と日本の両方に生活の基盤を持つようになりました。両国の制度を並べて眺めていると、「税率の高い/低い」という単純な比較では見えてこない、制度設計の思想の違いが浮かび上がってきます。日本は「居住地」よりも「国籍・親族関係」を重視する傾向が強く、英国は今回、より徹底した「居住地主義」へと舵を切った。どちらが良い悪いという話ではなく、それぞれの国が、何を守ろうとしているかの表れなのだと感じます。

枝についた赤い葉、日本の紅葉を思わせる風景

Photo by Yuki Nakamura on Unsplash
日本の紅葉を思わせる一枚。英国と日本、二つの国の制度を対比するイメージです。

6. 「一般の年金生活者」への影響は、こう現れる

超富裕層の移住劇は、新聞の見出しになります。けれども、私たちのような年金生活者への影響は、もっと静かに、もっと地味なかたちで現れます。

不動産市況への波及。ロンドンのメイフェアやケンジントンで高級不動産の売買が減速すれば、その調整圧力は、時間差を伴いながら周辺の住宅市場全体にも及びます。私たちが直接、超高級物件を売買することはなくても、地域の不動産市況は、年金生活者の資産評価や、将来の住み替え計画にじわじわと影響します。

税制の「一般化」というリスク。相続税の非課税枠が2009年からずっと据え置かれているように、超富裕層だけを狙った制度のはずが、物価上昇とともに静かに対象を広げていくことがあります。

経済全体の乗数効果の縮小。富裕層が利用してきたプライベートバンキング、法律・税務事務所、高級レストラン、文化支援活動への支出が減れば、それに連なる雇用や地域経済にも影響が及びます。年金生活者の暮らしを支える公共サービスの財源にも、巡り巡って関わってくる話なのです。

7. 私自身は、どう動いているか

正直に書きます。私は1989年からずっと英国に住み続けているので、そもそも新しいノンドム優遇の対象にはなりません。むしろ「長期居住者(LTR)」として、すでに全世界の資産が英国の相続税の対象になっている立場です。加えて、日本にも季節ごとに滞在していますから、日本側の「居住地・本籍」の判定リスクも抱えています。フィリピンにも不動産を持っているので、実は三か国分の相続税ルールを同時ににらんでいることになります。

これまでは、「英国と日本、それぞれの税理士に個別に相談すればいい」と考えていました。しかし今回、年金の相続税化という変化を知って、それだけでは足りないと痛感しました。必要なのは、英国と日本、両方の制度に通じた専門家との出会いです。まだ見つけられていませんが、次の見直しの節目までに、探し始めようと思っています。これも、この歳になって出会う「新しい人」の形の一つなのかもしれません。

8. リタイア世代が取るべき「3つの防衛策」

超富裕層のように、国境を越えて身軽に移住することはできなくても、私たち年金生活者にできることはあります。

一つ目:資産と生活拠点の「分散」を、早めに、小さく始める。 すべてを一つの国、一つの制度に委ねてしまうと、その制度が変わったときの衝撃をまともに受けます。分散は、超富裕層だけの特権ではありません。

二つ目:専門家との関係を「有事」の前に作っておく。 相続や課税の問題は、実際に起きてから専門家を探すのでは、選択肢が限られてしまいます。英日両国の資格を持つ専門家、あるいは両国の制度に通じたアドバイザーとのつながりは、平時のうちに作っておく価値があります。

三つ目:「知らなかった」を防ぐ、情報の定点観測。 制度は静かに変わっていきます。年に一度でも、自分に関わる税制・年金制度のアップデートを確認する習慣を持つことが、最大の防衛策かもしれません。

9. 今すぐ始めるべき行動リスト

  • 自分が「居住者」とみなされる国・地域の基準(滞在日数、住所、経済的利害関係の所在地など)を、現時点で書き出してみる
  • 相続財産の概算と、それぞれの国での想定税額を、ざっくりとでも一度計算してみる
  • 英日両国、あるいは自分が関わる国々の二重課税防止条約の有無と概要を確認する
  • 海外資産・海外年金の申告義務について、最新のルールを確認する
  • 相続や資産に関する相談先(専門家)の候補を、平時のうちに一つでも見つけておく

こうした手続きは、お金がかかりますし、面倒でもあります。それでも続ける理由は、お金そのものより「残していく家族に、余計な負担を背負わせたくない」という気持ちのほうが大きい気がしています。制度の変化を知らないまま歳を重ねるのと、少しでも輪郭を掴んだ上で歳を重ねるのとでは、同じ不安でも、その重さがまるで違います。

10. バラの株分けから学んだこと

私は英国の庭でデイヴィッド・オースティンのバラを育てています。バラは、同じ場所に何十年も根を張らせ続けると、株が老化して花付きが悪くなることがあります。経験のある庭師は、時期を見て株分けをし、健全な部分を新しい土に植え替えます。一箇所に固執しすぎないことが、結果として長く咲かせるコツなのです。

資産や居住地も、同じことが言えるのかもしれません。一つの国、一つの制度に資産を固着させたままにしておくと、制度が変わったときに身動きが取れなくなります。かといって、超富裕層のように身軽に国境を越えられるわけでもない私たちにとって大切なのは、「いざという時に困らない程度に、健全に分けておく」という発想なのだろうと思います。これは、税の専門書にはあまり書かれていない、庭仕事から私が勝手に得た視点です。

おわりに

励ましの言葉をかけるのではなく、ただ同じ悩みを言葉にしておくことで、誰かの孤独が少し薄まればと願っています。制度は変わり続けますし、正解を今すぐ出す必要もありません。ただ、砂時計が動き出したことだけは、覚えておいて損はないと思います。

ほかにも、こんな本があります

よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。

『東から西へ ― 俳句のこころ、聖書のひかり ―』(村井弘 著)

相続や制度という硬い話のあとで、静かな言葉に立ち返りたくなったときに開いている一冊です。これは私の義父の遺作です。

Amazonで見る

『白内障手術体験記 ― 英国在住者が大阪で自費手術を受ける』(南晴人 著)

こちらも、66歳になってから経験した、暮らしの節目の記録です。

Amazonで見る

『英国寿司ビジネス奮闘記(小説版)』全4巻(南晴人 著)

29歳でロンドンへ渡り、寿司ひとすじに35年。見習いから工場長、そして寿司教室までを描いた小説シリーズです。

Amazonで見る

関連書籍

All You Need to Know About Inheritance Tax (IHT): Updated for 2025/26 & 2026/27 Tax Changes(Karl Hartey著、ペーパーバック)

(本テーマ〈英国の年金相続税化・2027年改正〉を扱った日本語書籍が現時点で見当たらないため、例外的に英語書籍をご紹介しています。)

(Amazonのアソシエイトとして、60歳からの冒険は適格販売により収入を得ています。)