🎧 対談で聴く(二人が語り合う、この記事の感想・解説)

この音声は、本文の内容をもとにGoogle NotebookLM(Gemini)が生成したAI音声解説です。二人のキャスターが感想や解説を交えて語り合う対談形式の音声で、本文をそのまま読み上げるものではありません。

ウィリアム・オスラー『平静の心――オスラー博士講演集』(日野原重明・仁木久恵訳)に収められた4つの講演——「平静の心」「医師と看護婦」「生き方」「医学生のためのベッドサイド・ライブラリー」——をきっかけに、66歳の私が実際に始めてみたことをまとめました。本の紹介というより、私自身の実践記録です。

医学部に在籍していた5年間、名前だけは何度も耳にしていた人がいます。それがこのオスラーです。近代医学教育の礎をつくったカナダ生まれの医師で、晩年はオックスフォード大学の欽定講座教授を務めました。当時の私は試験に追われるばかりで、その講演集を手に取ることはありませんでした。英国と日本を行き来する暮らしの中でようやくページを開いてみたら、これは医学生への訓話であると同時に、老いの入り口に立った人間への手紙でもありました。

嵐の海に静かにそびえる岬。荒れる波と、その足元だけ穏やかな水面を描いたイラスト

マルクス・アウレリウスの「汝、海に屹立する崖になれ」という一節から着想したイラストです。波は絶えず打ち寄せるけれど、崖そのものは静かに立っている——「平静の心」という言葉のいちばん素朴なイメージを描いてもらいました。

顔に出さない、という実践

表題になっている「平静の心」は、1889年、オスラーが39歳でペンシルベニア大学を去るときの告別講演です。彼はまず、医師にとって最も大切な資質として「沈着」を挙げます。

沈着な姿勢とは、状況の如何にかかわらず冷静さと心の落ち着きを失わないことを意味する。嵐の真っただ中での平静さ、重大な危機に直面した際に下す判断の明晰さ ——同書「平静の心」より

つまり平静さとは心の中の状態ではなく、顔と態度に現れる技術なのだ、というのがオスラーの立場です。彼は、動揺が顔に出てしまう医師は患者の信頼を急速に失う、とまで書いています。

これを読んで思い当たったのは、診察室ではなく、株価をチェックしている自分の姿でした。相場が大きく下がった日ほど、平静を装おうとして、かえってお茶を何度も淹れ直したり庭に出たり入ったりと、そわそわ動き回ってしまう。言葉には出さなくても、連れ合いにはそれだけで見抜かれます。英国で暮らしていると物価がじわじわ上がっていく感覚が体に染みついていて、日本で冬を過ごすたびに「値段が変わらない」ことの不思議さと安心を同時に感じます。ふたつの経済圏を行き来していると、どちらか一方だけを見て慌てても仕方がない、と自然に思えるようになりました。今は、下げた日ほど画面を閉じて庭に出ます。判断を先延ばしにするためではなく、顔に出す前にひと呼吸置くためです。

一日を「防日区隔室」に区切る実践

1913年、64歳のオスラーがイェール大学の学生に語ったのが「生き方」です。彼は大西洋を渡る客船の防水区画を引き合いに出して、一日という単位で人生を仕切ることを勧めます。訳者はこれを「防日区隔室」と訳しました——「防水」にならって、水の代わりに日を区切る、という訳者の造語です。

昨日の重荷に加えて明日の重荷までも今日背負い込んだならば、いかに頑強な者でもよろめくことだろう。 ——同書「生き方」より

重いのは今日ではなく、今日に持ち込んでしまった昨日と明日なのだ、という指摘です。

釈迦の説いた四苦八苦のうち、私が最近になってようやく腑に落ちたのが五蘊盛苦——心と体のはたらきそのものが苦しみを生む、という苦です。若い頃は、これを抽象的でよくわからない項目だと思っていました。でも今は、体の不調そのものよりも、それについて考え続ける自分の頭のほうが厄介だとはっきりわかります。痛みは一日分ですが、心配は昨日の分も明日の分も引き受けてしまう。オスラーの船の比喩は、この五蘊盛苦にそのまま重なりました。苦しみそのものをなくすことはできなくても、今日の区画に苦しみを閉じ込めて、昨日や明日へあふれさせないことならできます。それだけで、同じ一日がずいぶん軽くなります。

具体的には、朝の千年灸を「今日の扉を開ける合図」に決めました。足三里に一つ据えて、熱がじんわり回るまでの数分間だけ、昨日の後悔も来月の予定も持ち込まない。たったそれだけのことですが、この数分があるかないかで、その日の輪郭がずいぶん違います。

大型客船の断面図。いくつもの防水区画に仕切られ、そのひとつに小さく朝日が差している様子を描いたイラスト

オスラーが「生き方」で使った、客船の防水区画の比喩を図にしたものです。船が沈まないのは水が入らないからではなく、入った水が一区画で止まるから——という発想を、朝の光が差す一室として描いてもらいました。

習慣という、いちばん長い仕事

同じ講演でオスラーは、性格というものの正体について、古代の伝記作家プルタークの言葉を引いています。

精神・道徳の両者にあずかる性格(character)は、プルタークの言葉によると、「長期にわたった習慣」なのである。 ——同書「生き方」より

つまり人格とは生まれつきの何かではなく、繰り返しが彫り上げた形だということになります。

この一節を読んだとき、真っ先に浮かんだのが庭のアスパラガスでした。苗を植えてから最初の収穫まで、三年待たなければなりません。一年目も二年目も、出てきた芽は切らずにそのまま伸ばして、羽根のような葉を茂らせ、秋に枯れたら刈り取って、また春を待つ。何も得られない年に同じ世話を続けることが、四年目以降の太い芽をつくります。これほど「長期にわたった習慣」を絵に描いたような植物もありません。私が英国で育てているものの中で、いちばん自分の老後に似ていると感じるのがこの野菜です。

面白いことに、オスラーが「生き方」を語った1913年のちょうど200年前、1713年に日本では貝原益軒が『養生訓』を書いています。片方は英語圏の医学生への講演、片方は江戸の儒学者による養生の書。それでも、節度・規則正しさ・「今日一日を丁寧に」という核はほとんど同じです。益軒は、気ままにならず細心に日々を過ごす心構えを「畏れ」と呼び、その畏れから「慎み」——つまり規則正しい生活——が生まれると説きました。オスラーはそれを宗教的な言葉ではなく「習慣」と呼びましたが、指しているのは同じもの、日々の小さな自制の積み重ねです。二百年と一万キロを隔てて、同じ結論に着地しているのを見ると、これは文化の違いではなく人間の身体の側の事情なのだろう、と思えてきます。

春の菜園。アスパラガスの畝から細い芽が顔を出し、奥に前年の枯れた羽根葉が積まれている様子を描いたイラスト

三年待って初めて収穫できるアスパラガスの畝をイメージしたイラストです。手前の若い芽と、奥に置かれた昨年の枯れ枝を一緒に描くことで、「今年の芽は去年の世話でできている」ことが見えるようにしてもらいました。

就寝前の三十分という実践

四篇の中でいちばん短いのが「医学生のためのベッドサイド・ライブラリー」です。オスラーは、専門教育だけで満足するなと言ったあと、こう続けます。

就褥前の三十分間本を読み、朝目覚めたときベッドサイドのテーブルの上に本が広げたままであってほしいと思う。 ——同書「医学生のためのベッドサイド・ライブラリー」より

そして彼は、生涯の友となる十冊——旧・新約聖書、シェイクスピア、モンテーニュ、プルターク『英雄伝』、マルクス・アウレリウス、エピクテトス、『医師の信仰』、『ドン・キホーテ』、エマーソン、ホームズ『朝の食卓シリーズ』——を挙げています。

正直に言うと、この十冊を全部読み通せるとは思っていません。私がこの節から受け取ったのは書名のリストではなく、「三十分」と「広げたまま」という二語のほうでした。この年になって困っているのは、読む力よりも思い出す力です。人の名前や本のタイトルが喉元まで出てきて、そこで止まる。固有名詞だけがすっぽり抜ける感覚は、経験した方ならわかっていただけると思います。だから今は、開いたページに付箋を貼り、翌朝そこから読み直すようにしました。本を閉じないというだけで、記憶の負担がずいぶん減ります。

そしてもう一つ、私にとっての「ベッドサイド」はこのブログです。読んだそばから忘れていくのなら、忘れる前に書いておけばいい。記憶が弱くなっても、書くことで人生を編集し続けることはできる——そう考えるようになってから、記録することへの気後れがなくなりました。

「人生から」ではなく「人生に」という実践

1891年、ジョンズ・ホプキンス病院附属看護学校の第一期生に向けて語られたのが「医師と看護婦」です。この講演の終わり近くに、私がいちばん長く立ち止まった二行があります。

魂を満たしてくれる職業に没頭するところにこそ幸福は存在する、という幸福の奥義を授けられたのであるから。 ——同書「医師と看護婦」より

さらにオスラーは、われわれは人生から何かを与えられるためではなく、自らが人生に与えるために存在するのだ、と続けます。

幸せとは何か、善とは何か、人は何のために生まれてきたのか——こういう大きな問いに、私は長いあいだ答えを持てずにいました。それでもこの二行を読んで、答えは「何になるか」ではなく「何を差し出すか」の側にあるらしい、と思うようになりました。差し出すものは大きくなくていい。庭の余った苗を近所に配る。旅先で見たものを書き留めて英語圏の読者に渡す。英国の暮らしの細部を日本語で書く。どれも生活の延長にある小さなことですが、こちらから差し出しているという感覚がある日は、確かに一日の色が違います。

顔も名前も知らない誰かと、経験だけを通じて繋がっている。そんな静かな連帯があってもいいと思うのです。

年齢が配ってくれる平静——私が本から一歩踏み出したところ

ここからは、オスラーが書いていないことです。

「平静の心」の中で、彼は沈着さについて少し悲観的なことを言っています。この資質は主として天賦のもので、生まれつき欠けている人もいる、と。ただし練習と経験を重ねることでかなりの程度まで身につけられる、とも書いています。四十歳前の彼にとって、平静さは努力して獲得するものでした。

私が思うのは、年齢そのものが、この「天賦」を後から配ってくれるのではないかということです。体力が落ちれば、慌てても走れません。徹夜がきかなくなれば、心配を朝まで引き延ばせません。若い頃なら一晩中腹を立てていたようなことも、今はそもそも怒りが湧いてきません。若い頃にできなかった生の捉え方が、努力ではなく身体の衰えのほうから届いてくる——これは老いの数少ない配当だと思っています。

同じ講演には、こんな一行もあります。

第一に必要なものは、諸君の周囲の人達に多くを期待しないことである。 ——同書「平静の心」より

若い頃にこれを読んだら、冷たい処世術に見えたはずです。今は違って聞こえます。期待を下げるのは相手を見限ることではなく、相手をそのままの大きさで見るということでした。豊かな老後とは、たぶんこの「そのままの大きさ」で世界を眺められる時間のことなのだろうと、アスパラガスの芽を待ちながら考えています。

苦しみは減りません。体は毎年少しずつ言うことをきかなくなります。それでも、一日を区切り、顔に出す前にひと呼吸置き、就寝前の三十分を守り、何かを差し出す。オスラーが医学生に贈った言葉は、百年以上たって、引退した一人の生活者の手元でもまだ働いてくれています。

今回ご紹介した本はこちらです。

ウィリアム・オスラー『平静の心――オスラー博士講演集』(日野原重明・仁木久恵 訳、医学書院)

(Amazonのアソシエイトとして、60歳からの冒険は適格販売により収入を得ています。)

ほかにも、こんな本があります

よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。

『東から西へ ― 俳句のこころ、聖書のひかり ―』(村井弘 著)

「防日区隔室」に一日を区切るという発想と同じく、一句一句を区切りとして読める句集です。これは私の義父の遺作です。

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『白内障手術体験記 ― 英国在住者が大阪で自費手術を受ける』(南晴人 著)

「動揺を顔に出さない」という実践を、実際の手術という緊張の場面で試した体験記です。

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『英国寿司ビジネス奮闘記(小説版)』全4巻(南晴人 著)

29歳でロンドンへ渡り、寿司ひとすじに35年。見習いから工場長、そして寿司教室までを描いた小説シリーズです。

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著者ウィリアム・オスラーが生きた時代

19世紀末の医学校の講堂。木の階段席と、演壇に立つ髭の講師、窓から差す光を描いたイラスト

オスラーが告別講演を行った1889年頃の医学校の講堂をイメージしたイラストです。当時の医学教育がまだ大教室での講義中心だったこと、そこに彼がベッドサイドでの実地教育を持ち込もうとしていたことを、光の差し込む窓で表しました。

ウィリアム・オスラー(1849-1919)は、カナダ・オンタリオ州の開拓地に生まれました。父は英国国教会の宣教師で、家には九人の子どもがいます。本人は最初、父と同じ聖職者を志して神学校に進みますが、そこで出会った二人の教師——博物学に通じたジョンソン師と、医師のボヴェル——に導かれて医学へ転じました。「生き方」の中で彼自身が、人生を決めたのは大きな決断ではなく偶然の出会いだったと振り返っています。

彼が医師になった1870年代は、医学が根本から作り替えられていく時代でした。麻酔と消毒法が普及し、細菌が病気の原因として同定されはじめ、顕微鏡が診断の道具になっていく。一方で、病院はまだ貧しい人が死ぬ場所という色合いを残し、看護は職業として確立したばかりでした。「医師と看護婦」でオスラーが看護職の歴史的な意義を熱心に語っているのは、彼の目の前でその職業が生まれつつあったからです。

オスラーの経歴は、この講演集の四篇にそのまま対応しています。マギル大学、ペンシルベニア大学、ジョンズ・ホプキンス大学、そしてオックスフォード大学。「平静の心」はペンシルベニアを去るとき、「医師と看護婦」はジョンズ・ホプキンス時代、「生き方」は英国に移った後、米国イェール大学に招かれたときのものです。つまりこの一冊は、北米と英国という二つの医学の伝統を行き来した人の記録でもあります。二つの国を行き来する暮らしをしている身としては、この点にどうしても親しみを覚えます。

彼の思想の背骨には、二つのものがあったと思います。ひとつは古典です。ギリシャ・ローマの著作をラテン語と英語で読み込み、マルクス・アウレリウスやプルタークを日常の言葉として引きました。「平静の心」という題そのものが、ローマ皇帝アントニヌス・ピウスが臨終に際して残した合言葉から取られています。もうひとつは、彼が終生手放さなかったユーモアです。オスラーは病棟でよく冗談を言い、匿名で悪ふざけの論文を発表したこともある人でした。厳粛な講演の中に急に軽口が混じるのは、この人の地の部分でしょう。

彼はまた、徹底した「本の人」でもありました。生涯にわたって稀覯書を集め、その蔵書はマギル大学のオスラー図書館として今も残っています。「医学生のためのベッドサイド・ライブラリー」の十冊は、思いつきのリストではなく、彼自身が枕元に置き続けた本たちでした。

晩年は幸福なばかりではありません。1917年、一人息子のリヴィアを第一次世界大戦の戦場で失っています。「平静の心」を説いた人が、最も平静ではいられない出来事に見舞われた。その二年後、彼はスペイン風邪の流行のさなかに肺の合併症で亡くなりました。七十歳でした。彼の言葉が今も読まれるのは、それが痛みを知らない人の楽観ではなく、痛みを引き受けた人の実践だったからだろうと思います。