🎧 対談で聴く(二人が語り合う、この記事の感想・解説)
この音声は、本文の内容をもとにGoogle NotebookLM(Gemini)が生成したAI音声解説です。現時点では日本語音声のみのご用意です。二人のキャスターが感想や解説を交えて語り合う対談形式の音声で、本文をそのまま読み上げるものではありません。
アラン『幸福論』(岩波文庫版)をきっかけに、66歳の私が実際に始めてみたことをまとめました。以前から名前は知っていましたが、実際に読んだことはなく、今回手に取ったのは、書店の棚でふと目にとまった「悲観主義は気分によるものであり、楽観主義は意志によるものである」という一節がきっかけです。アランは1868年にフランスで生まれ、40年にわたってリセ(高等中学校)で哲学を教えながら、毎日新聞に「プロポ」と呼ばれる短い哲学断章を書き続けた人物です。本書はその中から選ばれた93篇からなっています。老いや体の変化と向き合いながら暮らす今の私にとって、一世紀近く前に書かれたこの本が、驚くほど今の自分に語りかけてくるものでした。
雨の日の書斎で、万年筆を手にノートに向かう情景です。アランが40年にわたって毎日「プロポ」を書き続けた習慣をイメージして作成しました。
気分はからだから来る、という実践
アランは「悲しみのマリー」という節で、一週間ごとに気分が入れ替わる女性の話を紹介しています。ある心理学者が彼女の血液を調べたところ、よろこびの季節には血球数が減り、悲しみの季節には増えるという法則を見つけたというのです。気分の正体は理屈ではなく、からだの状態だったというわけです。
幸福のなかには人の思っている以上に強靱な意志がある。 ――アラン『幸福論』(岩波文庫)より
朝、関節のこわばりを感じながら起き上がる日、私はつい「今日は調子が悪い」と気分のせいにしてしまいがちでした。でも、これはからだの一時的な状態であって、自分という人間そのものが曇っているわけではないと考えると、少し気が楽になります。そういう朝はまず湯を沸かし、千年灸を一つ、足の冷えているところに据えることにしています。理屈で気分を変えようとするより、からだに小さな合図を送るほうが早いのだと、この本を読んでから実感するようになりました。
「二つの取っ手」を持つという実践
アランは、どんな水差しにも二つの取っ手があるように、どんな出来事にも二つの見方があると書いています。
どんな水差しでも二つの把手があるから。同じように、どんな出来事でも二つの視座があるからだ。 ――同書より
この本を読んで思い出したのは、仏教でいう諸行無常という考え方です。気分も、からだも、庭の景色も、すべては絶えず移ろっていく。だからこそ、つらい取っ手を握り続ける必要はなく、いつでも反対側の取っ手に持ち替えることができるのだと思うようになりました。若い頃は「弱音を吐かずに耐えること」が老いへの向き合い方だと思っていましたが、今は「今日はこちらの取っ手を持とう」と選び直すことのほうが、よほど現実的な知恵だと感じています。これは我慢を放棄することではなく、同じ出来事を別の角度から一度眺め直すという、ごく具体的な習慣です。
自分でつくる幸福、という実践
守銭奴について書かれた節で、アランは印象深い対比をしています。
幸福とは本質的に詩であり、詩とは行動を意味する。棚からぼた餅のように落ちてきた幸福を、人はあまり好まない。自分でつくった幸福が欲しいのだ。 ――同書より
これは、お金そのものについての戒めというより、幸福の出どころについての指摘だと私は受け取りました。若い頃から株や不動産への投資を続けてきましたが、資産の残高を眺めているだけでは、実はそれほど心が満たされないことに気づいています。むしろ、毎月の記録をつけたり、次にどう配分するかを自分の頭で考えたりする過程のほうに、静かな充実感があるのです。庭で世話をしている英国バラも同じで、10種類以上のバラは放っておけば咲きません。剪定し、虫を確認し、肥料をやる、その手間のかかる時間こそが、切り花を買うのとは違う種類の幸福を運んできてくれます。
剪定バサミと如雨露が置かれた、英国バラの庭のイラストです。手をかけて育てる時間こそが「自分でつくる幸福」であるという実践をイメージしました。
行動することが幸福である、という実践
アランは、アリストテレスの言葉を引きながら、仕事そのものが喜びの源であると書いています。
真の音楽家とは音楽を楽しむ者のことであり、真の政治家とは政治を楽しむ者のことである。楽しみは能力のしるしである。 ――同書より
英国と日本を行き来する今の暮らしは、決して楽なものではありません。それでも、日本語と英語でこのブログを書くという作業そのものが、私にとってはアランのいう「行動」に近いものだと感じています。日本の読者に英国の暮らしを、英国にいる人々に日本の文学や俳句の感覚を、少しずつ橋渡ししていくこと。これは誰かにやってもらうことのできない、自分の手でしかできない仕事です。日本語には「生きがい」という言葉がありますが、アランが「行動が幸福をつくる」と言うとき、彼が知らなかったはずのこの東洋の概念と、驚くほど近い場所に立っているように思えてなりません。フランスの哲学教師と日本語の日常語が、こんなところで手を取り合うのは、なんだか愉快なことです。
地球儀の上でイギリスと日本を結ぶ線と、便箋とペンのイラストです。二拠点の暮らしの中で日英を橋渡しする「行動」をイメージして作成しました。
退屈こそ敵、幸福は義務である、という実践
「王さまは退屈する」という節で、アランは欲しいものがすべて手に入る王には幸福がないと書いています。
幸福というのはおそらくいつも、ある種の不安、ある種の情念、すなわちわれわれを自分自身に対して目ざめさせるような苦痛の切っ先を前提にしている。 ――同書より
リタイアしてからというもの、「毎日が日曜日」のような時間の中で、何もしない日ほど気分が沈むことに気づきました。だからこそ私は、多少の締め切りやちょっとした厄介ごとがある暮らしのほうを、あえて選ぶようにしています。アランは「幸福になろうと欲しなければ、絶対に幸福にはなれない。幸福になることはまた、他人に対する義務でもあるのだ」とも書いています。これは少し厳しい言葉に聞こえますが、私は最近、こう考えるようになりました。私はただ自分の記録を書いているだけですが、それが誰かの隣を静かに歩く時間になっていたら嬉しく思います。上機嫌でいることは、自分のためだけでなく、まわりの人への小さな贈り物でもあるのだと。
記録すること自体が、実践である
アランは40年間、休むことなく毎日のプロポを書き続けました。記憶力や集中力が昔のようにはいかないと感じることが増えた今の私にとって、この事実は静かな励ましになります。書くことは、覚えていられなくなったことを惜しむ作業ではなく、その時々の自分の考えを編集し直していく作業なのだと、アランの生き方が教えてくれるようです。完璧な結論を出す必要はありません。今日わかったことを、今日の言葉で書き留める。それだけで、人生は編集され続けていくのだと思います。
『幸福論』が教えてくれること
『幸福論』は、幸福とは待つものではなく、つくるものだと繰り返し語りかけてきます。気分はからだから来ること、出来事には二つの取っ手があること、幸福は自分の行動からしか生まれないこと、退屈こそが本当の敵であること。どれも特別な発見ではないのかもしれませんが、66歳の今、あらためて自分の生活の中で試してみたい考え方ばかりです。
今回ご紹介した本はこちらです。
アラン『幸福論』(岩波文庫)
(Amazonのアソシエイトとして、60歳からの冒険は適格販売により収入を得ています。)ほかにも、こんな本があります
よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。
アランという人について
20世紀初頭のフランスの街並みとリセの回廊、古い万年筆と便箋のイラストです。アランが哲学教師として過ごした時代の空気をイメージして作成しました。
著者アランの本名はエミール゠オーギュスト・シャルティエといい、1868年にフランス北西部のモルターニュ゠オ゠ペルシュに生まれ、1951年にル・ヴェジネで亡くなりました。パリの高等師範学校に学んだのち、40年にわたってリセ(日本の高等学校にあたる)で哲学教師を務め、後に作家となるアンドレ・モーロワや、哲学者シモーヌ・ヴェイユといった多くの教え子を育てています。教職のかたわら、1906年から1914年にかけては新聞「ラ・デペシュ・ド・ルーアン」に、1921年から1936年にかけては「リーブル・プロポ」に、ほぼ毎日「プロポ」と呼ばれる短い哲学的断章を書き続けました。決まった時間に一気に書き上げ、後から手を入れることはほとんどなかったといいます。この習慣そのものが、本書の軽やかで実践的な文体を生んだのでしょう。
アランが生きた時代は、普仏戦争の記憶が残るフランス第三共和政の時代であり、第一次世界大戦という巨大な暴力を身をもって経験した時代でもありました。彼は1914年、46歳という徴兵の対象外の年齢でありながら、みずから志願して一兵卒として従軍し、砲兵として前線に立っています。哲学者でありながら机上の理論に安住せず、自分の手足を動かして確かめようとするこの姿勢は、『幸福論』全体に流れる「行動こそが幸福をつくる」という思想と、そのまま重なっているように思えます。戦場という極限の状況を知る哲学者が、それでもなお「幸福になることは義務である」と説いたことの重みを、私は本書を読みながら何度も感じました。