🎧 対談で聴く(二人が語り合う、この記事の感想・解説)
この音声は、本文の内容をもとにGoogle NotebookLM(Gemini)が生成したAI音声解説です。二人のキャスターが感想や解説を交えて語り合う対談形式の音声で、本文をそのまま読み上げるものではありません。
村井弘さんの『東から西へ 俳句のこころ、聖書のひかり』を読み、そこから得たヒントをもとに、66歳の私が実際にやってみている七つの実践をまとめたのがこの記事です。芭蕉や蕪村、山頭火といった俳人たちの句を一句ずつ取り上げ、その背後にある心の動きを聖書の言葉と重ね合わせて読み解いていく本で、これまで読んできた闘病記や生き方の本とは違い、短い十七文字の向こう側にある「見えないもの」を、もう一つの「見えないもの」と重ね合わせて眺めてみる、という試みでした。日々の暮らしの中で見過ごしてしまいがちな瞬間を、もう一度きちんと受け取り直すきっかけをもらった一冊です。
このイラストは、俳句という東洋の感性と、聖書という西洋の言葉が、静かに重なり合う様子をイメージして作成したものです。
見えないものに支えられている、という実践
―野沢凡兆が、一面の雪野原に一筋の川だけが黒く浮かび上がる冬景色を詠んだ句にふれて
ながながと川一筋や雪の原
本の中で繰り返し語られていたのは、「見えるもの」と「見えないもの」の関係でした。目に見える現象の背後には、目には見えないけれど確かに世界を支えている何かがある、という視点です。これを読んでから、自分の健康寿命について考えるときの姿勢が少し変わりました。血圧の数値や検査結果といった「見える」ものだけを追いかけていると、それに一喜一憂して疲れてしまいます。今は、朝起きて呼吸ができていること、心臓が動いていること、そうした当たり前すぎて意識してこなかった「見えない」働きに、意識的に感謝の時間を取るようにしています。健康寿命というのは、数値を管理することだけでなく、すでに自分が生かされていることに気づくところから始まるのだと、この本を読んで思うようになりました。
素手で今日を受け取る、という実践
―尾崎放哉が、器を持たず両手だけで何かを受け止める一瞬を詠んだ句にふれて
入れ物が無い両手で受ける
印象に残った句の一つに、器を使わず両手だけでものを受け取る、という情景を詠んだものがありました。理屈や言い訳を挟まずに、澄明な言葉をそのまま身体で受け止める、という姿勢です。私はこれまで、何か新しいことに触れるとき、つい「これは自分の経験ではこうだった」「これはこういう意味だろう」と、頭の中で先に整理してしまう癖がありました。今は、朝の散歩で見かけた花や、隣人との何気ない挨拶を、まず何も分析せずに、そのまま「受け取る」ことを意識しています。今を生きるというのは、案外こういう小さな積み重ねなのだと感じています。わくわくして毎日を生きる、というのも、特別な出来事を待つことではなく、素手で受け取れる瞬間を一日の中にいくつ見つけられるか、という話なのかもしれません。
「貧しい心」を持つ、という実践
―松尾芭蕉が、旅に疲れて藤の花の下に一夜の宿を借りるひとときを詠んだ句にふれて
草臥て(くたびれて)宿かる比(ころ)や 藤の花
本の中で、心が貧しいというのは物を持っていないことではなく、恨みや妬み、取り越し苦労や優越感、劣等感といった「あれやこれや」を抱え込んでいない、身軽な状態を指すのだ、という一節がありました。これは、お金の心配との付き合い方についても、私に一つの視点をくれました。老後資金の不安は現実的なものとして確かにありますが、それとは別に、「もっと持たなければ」「人と比べて足りない」という心の重荷を、無意識に抱え込んでいないか、と自分に問い直すようになりました。実際の資産管理は資産管理として淡々と続けながら、心のほうは「今日一日分だけ」を引き受けて、明日のことまで先取りして思い煩わない。そう区別して考えるようになってから、お金にまつわる漠然とした不安が、以前より軽くなった気がしています。
敵を愛する、という実践
―種田山頭火が、湧き出る温泉の真ん中に身をゆだねる自分自身を詠んだ句にふれて
朝湯こんこん あふるるまんなかのわたくし
正しい者にも正しくない者にも、太陽は昇り、雨は降る、という聖書の言葉が、ある句の解説の中で引かれていました。人間関係の苦しみというのは、多くの場合、自分の中の利害や立場を前提にした善悪の判断から生まれるのだ、という指摘に、はっとさせられました。会いたくない人に会わなければならない場面は、この歳になっても当然あります。以前は、そういう相手に会う前から気持ちが重くなっていましたが、今は「この人にも、私と同じように、雨や太陽が平等に降り注いでいる」と一度心の中で言葉にしてから会うようにしています。相手を好きになる必要はありませんが、自分の利害の物差しだけで相手を測ることをやめると、会うこと自体への構えが、少し軽くなることに気づきました。
うすあかりの中に希望を見る、という実践
―久保田万太郎が、ひとり湯豆腐の鍋を前に座る静かな晩年のひとときを詠んだ句にふれて
湯豆腐やいのちのはてのうすあかり
湯豆腐を前にして、ひとり鍋の前に座っている、というだけの静かな句がありました。失意や孤独のうちに老年を送った作者の心情に、著者は「うすあかり」という言葉を重ねていました。老いていく中では、若い頃のような明るい光ではなく、ほのかな、かすかな光しか見えない時期があるものだと思います。それを寂しいと感じる日もありますが、この本を読んでからは、そのうすあかりそのものを、否定せずに味わうようにしています。自らの「老い」に苛立つ瞬間は正直あります。若い頃にできたことができなくなる悔しさは、なくなりません。けれど、その苛立ちごと抱えたまま、夕方の台所に立つ湯気や、静かな夜の時間の中に、小さな明かりを見つける。老境を楽しむというのは、苛立ちを消すことではなく、苛立ちと明かりを同時に持てるようになることなのかもしれない、と今は思っています。
日々を新しく味わう、という実践
―村上鬼城が、新しい布団に身を横たえながら春の雨音に耳を澄ませる情景を詠んだ句にふれて
新しき蒲団に聴くや春の雨
新しい布団に横たわったときの、ちょっとした安堵感を詠んだ句もありました。特別なことではなく、日々のささやかな新しさに気づく感受性こそが、生きることの豊かさなのだ、という読み解きに励まされました。就職活動ならぬ「終活」というものも、身辺整理や手続きとして捉えるだけでなく、今日という一日を、まっさらな布団のように新しく受け取り直す作業として捉え直せないか、と考えるようになりました。時間の流れは、年齢を重ねるほど速く感じられるものだと、この本にも書かれていましたが、だからこそ、一日一日を「あっという間」に流してしまわず、意識して味わう。それが、豊かな老後を過ごすための、私なりの実践のひとつになっています。
死を「塵」として引き受ける、という実践
―医師でもあった相馬遷子が、六十八歳で世を去る際、冬の穏やかな日に大空を満たす光の塵の一つとなって去っていく自分を詠んだ辞世の句にふれて
冬麗の微塵となりて去らんとす
本の中には、医師でもあった俳人が晩年に詠んだ、この一句も紹介されていました。老いていくことのつらさは、多くの場合、肉体が思うように動かなくなることへの苛立ちから来るのだと感じています。この句は、人間には「土に帰る肉体」と「塵に帰る何か」の両方があるという見方を、静かに差し出してくれます。関節の痛みや、夜中に何度も目が覚めることに苛立つ自分を、今は「これは土の部分の話だ」と、一歩引いて眺めるようにしています。そう考えると、老いに苛立ちながらも、その奥にある変わらない何かを静かに喜ぶ、という余地が少し生まれる気がしています。
東から西への旅の途中で
この本のタイトルにある「東から西へ」は、俳句という東洋の感性と、聖書という西洋の言葉が出会う場所を指しているのだと思います。人やあらゆる命がどこから来てどこへ行くのか、という問いに、この本は明確な答えを与えてはくれません。けれど、塵に帰るべき身でありながら、その塵の中にこそ、うすあかりのような希望が宿っている、という視点は、66歳の今の私にとって、静かな支えになっています。数字を追いかけることでも、答えを急いで出すことでもなく、今日という一日を素手で受け取り、貧しい心のまま、うすあかりを味わう。そんな小さな実践を、これからも続けていきたいと思っています。
今回ご紹介した本はこちらです。
ちなみに、著者の村井弘は私の義父にあたり、本書のKindle版は私が出版しました。身内の本ではありますが、ここに書いたことは正直な実感です。
(本サイトはAmazon.co.jpを宣伝しリンクすることによって紹介料を獲得できるAmazonアソシエイト・プログラムの参加者です)
ほかにも、こんな本があります
よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。
『白内障手術体験記 ― 英国在住者が大阪で自費手術を受ける』
大阪での両眼の白内障手術を、英国と日本の二拠点生活を送る66歳の視点から、率直に綴った体験記です。レンズ選びから費用、術後の見え方まで、実際に経験したことをそのまま記録しました。
Amazonで見る著者について:村井弘という人、生きた時代
村井弘さんは昭和12年(1937年)、奈良県に生まれました。関西学院大学を卒業後、会社員や自営業に携わりながら、キリスト教の教団や教派には属さない立場で、独自に聖書研究を続けてきた人物です。仙台で呉服小売店を経営するかたわら「聖書に学ぶ会」を主宰し、1991年からは月刊の聖書研究誌『みちのく便り』を発行していました。1994年、娘夫婦の住む英国ロンドンに移住し、2017年、ロンドンでその生涯を終えています。村井さんの世代は、幼少期から少年期にかけて戦争と敗戦を経験し、その後の高度経済成長期に社会人としての人生を歩んだ世代にあたります。国家や既存の権威が大きく揺らぐ時代を実体験として通過したことが、特定の教団や宗派に依らず、自分自身の目で聖書を読み直そうとする姿勢に影響を与えているように感じられます。本書のあとがきでも、俳句と聖書という、本来は別々の文脈にある二つの世界を、あえて比較する方法を試みたと述べており、既存の枠組みに収まらない、独立した思索者としての姿勢がうかがえます。
もう一つ特徴的なのは、村井さんが宗教を職業とする聖職者ではなく、呉服商という商いの現場に身を置きながら、生活者としての視点で聖書と向き合い続けてきた点です。本書に収められた文章には、学者による聖書解釈とは異なり、日々の商売や暮らしの中で培われた、地に足のついた感性が随所に感じられます。松尾芭蕉や与謝蕪村、種田山頭火といった、旅や漂泊、老いや病を経験した俳人たちの句を選んでいることからも、村井さん自身が、平穏な日常の延長線上ではなく、揺れ動く時代と生活の只中で信仰的な問いを重ねてきたことがうかがえます。晩年に日本からロンドンへと生活の場を移したその歩みは、本書のタイトル「東から西へ」とも、静かに重なって見えます。教団に属さず、しかし信仰を手放さない。そうした村井さんの立ち位置そのものが、本書全体に流れる、静かで独立した思索の基調を形づくっているように思います。