🎧 対談で聴く(二人が語り合う、この記事の感想・解説)

この音声は、本文の内容をもとにGoogle NotebookLM(Gemini)が生成したAI音声解説です。二人のキャスターが感想や解説を交えて語り合う対談形式の音声で、本文をそのまま読み上げるものではありません。

道が消えた日のこと

昭和60年、私は国立大学の医学部を中退しました。5年間通った校舎を出て、下宿へ帰る坂道を歩いていたときのことを、いまでもよく覚えています。歩いているのに、足の下から道が消えていくような感覚がありました。

なぜそう感じたのか。というのも、それまでの私にとって「道」とは、すでに敷かれていて、自分はその上を歩くだけのものだったからです。入学した時点で、6年後の卒業も、その先の研修も、地図の上に線として引かれていました。中退するとは、その線を消すことでした。線が消えたあとに残るのは、道ではなく、ただの土でした。

66歳になった今、あのときの感覚をもう一度考え直しています。あれは道が消えたのではなく、道がまだ踏まれていなかっただけだったのではないか、と。

曲がりくねった土の道が、畑のあいだを抜けて地平線へ向かっている

誰かが繰り返し歩いたからこそ、この線は道の形をしています。一度も踏まれなければ、ここはただの畑のままでした。私が20代で見失ったのは、たぶん「線」であって「土」ではなかったのだと思います。

Photo by Marco Cavallera on Unsplash


「Cantares」という歌に出会う

その言い換えを私に授けてくれたのが、スペインの歌い手ジョアン・マヌエル・セラートの「Cantares(カンタレス/歌の数々)」という曲でした。1969年のアルバム『Dedicado a Antonio Machado, poeta(詩人アントニオ・マチャードに捧ぐ)』の1曲目です。

詞は、詩人アントニオ・マチャードが『カスティーリャの野』に収めた連作「格言と歌」の一篇を土台にしています。歌詞をそのまま引くことはしませんが、中心にある考えはこういうものです。歩く人よ、あなたの足あとが道なのであって、それ以外に道はない。歩くことによってしか道はできず、振り返ったときに見えるのは、二度と踏むことのない小径だけである。 マチャードはさらに、その道さえも海に引かれた航跡のように消えていく、と続けます。

セラートはここに自分の詞を足しました。マチャード本人のことを歌った部分です。詩人が最後にたどりついたのは灰色の海辺の町で、そこで貧しいまま亡くなった。それでも、歩いた跡は消えなかった――という主旨のことを、彼はやわらかい声で歌います。

私がこの曲を知ったのは、実はずっとあとのことです。リタイア後、司馬遼太郎の『街道をゆく』を読み返していた時期に、「街道」という言葉をスペイン語ではどう言うのだろうと調べ始めて、camino という単語にたどりつき、そこからこの歌に行き着きました。読書が歌を連れてきたわけです。

実際の音は、身構えていると拍子抜けするほど静かです。テンポはゆっくりした三拍子で、最初にギターがぽつぽつと和音を置き、そこへセラートの声が、隣の席の人に話しかけるくらいの音量で入ってきます。盛り上がるのは中盤に弦とコーラスが重なるところだけで、それもすぐ引いていきます。3分あまりの、短い曲です。

スペイン語の歌詞そのものを読みたい方は、LETRAS.COM のアルバムページからご覧いただけます。曲は「Joan Manuel Serrat Cantares」で検索すると、1969年のアルバム『Dedicado a Antonio Machado, poeta』の音源がすぐ見つかります。


アントニオ・マチャードという詩人

アントニオ・マチャードは1875年、セビーリャに生まれました。8歳で家族とマドリードに移り、自由教育学院(Institución Libre de Enseñanza)で学びます。ここは当時のスペインでは異色の学校で、詰め込みではなく、野外に出て自分の目で見ることを重んじる教育をしていました。彼の詩に土や石や木の具体名が多いのは、この教育と無関係ではないと私は思っています。

彼が生きたのは、スペインが坂を下っていた時代でした。1898年、米西戦争に敗れ、キューバもフィリピンも失う。帝国だったはずの国が、地方の貧しい農業国であることを突きつけられます。この痛みを直視した文学者たちが「98年世代」と呼ばれ、マチャードもその一人でした。彼らに共通していたのは、外へ広がることをあきらめて、内側の、干からびた自国の土地そのものを見つめ直したことです。

1907年、彼はソリアという内陸の町にフランス語教師として赴任します。ここで15歳のレオノールと出会い、1909年に結婚しました。彼は34歳でした。しかし1912年、レオノールは結核で亡くなります。結婚してわずか3年でした。

愛別離苦、という言葉があります。愛する者と別れねばならない苦しみのことです。マチャードはこの苦しみのただ中で、ソリアを離れ、南のバエサへ移り、そこで『カスティーリャの野』を仕上げました。「歩くことによってしか道はできない」という一行が、妻を失った男の手から出てきたことは、私にはとても重く感じられます。なぜなら、その一行は前向きな励ましではなく、前に道がないという事実を認めたうえで、それでも足を出すという覚悟の表明だからです。

晩年は共和国側に立ち、内戦の激化とともにマドリードからバレンシア、バルセロナへと逃れ、1939年、ピレネーを越えてフランスのコリウールにたどりつきます。到着から一か月ほどで、彼はそこで亡くなりました。63歳。その3日後には、同行していた母も亡くなっています。

乾いたオリーブ畑の中に、一本の木が立っている

マチャードが歩いたカスティーリャの土地は、豊かではありません。石が多く、水が少なく、木は間隔をあけて立っています。彼の詩がやせた土地の描写から始まることが多いのは、そこにしか本当のことがないと考えていたからだと思います。

Photo by Vasilis Caravitis on Unsplash


ジョアン・マヌエル・セラートという歌い手

ジョアン・マヌエル・セラートは1943年12月27日、バルセロナのポブレ・セック地区に生まれました。労働者の家庭です。父ジュゼップはカタルーニャのアナキストで、労働組合CNTに関わっていた人でした。母アンヘレスはアラゴンの出身です。カタルーニャ語とスペイン語、そのどちらもが家の中にあったことが、のちの彼の仕事を決めたと言っていいでしょう。

彼はもともと音楽学校の出ではなく、農業技術者の資格を取っています。土や作物を測る訓練を受けた人が、のちに土の詩人マチャードを歌うことになったのは、偶然にしてはよくできた話だと私は思います。

1960年代半ば、彼はカタルーニャ語で歌う「ノバ・カンソ(新しい歌)」運動の中に現れました。フランコ体制下で、カタルーニャ語は公の場から締め出されていた時代です。歌うこと自体が姿勢の表明でした。1968年、彼はユーロビジョン・ソング・コンテストのスペイン代表に選ばれますが、カタルーニャ語で歌わせないのなら出ないと言って降ります。代役として出たマシエルが優勝しました。若い歌手が自分のキャリアの最大の機会を、言葉のために手放したわけです。

翌1969年、彼はマチャードのアルバムを出します。これはスペイン語の作品でした。カタルーニャ語を守るために国際大会を蹴った人が、翌年にはスペイン語の詩人を全力で歌う。この振れ幅こそがセラートだと私は感じます。彼が守りたかったのは、どちらか一方の言語ではなく、言葉が人から取り上げられないことそのものだったのでしょう。

1975年、彼はメキシコ公演中に体制下の処刑を批判し、帰国できなくなります。フランコの死後、1976年に戻りました。その後も彼は両方の言語で歌い続け、ラテンアメリカ全域で世代を超えて聴かれる歌い手になります。2022年、長い巡業生活に区切りをつける最後のツアーを行いました。

彼の声の特徴は、力まないことです。マチャードの重い一行を、彼はまるで台所で誰かに話しかけるような音量で歌います。というのも、詩を朗々と歌い上げてしまうと、詩は「立派なもの」になって、聴く人の生活から離れてしまうからです。彼はそれを避けたのだと思います。おかげでこの歌は、スペイン語圏の何千万人もの人にとって、教科書の中の詩ではなく、口ずさめるものになりました。


カニャーダ・レアル ― 羊が引いた線が法になるまで

この歌を聴くたびに、私はスペインの「カニャーダ・レアル(王の移牧路)」のことを考えます。

中世以来、スペインの羊飼いたちは、夏は北の高原で、冬は南の暖かい土地で羊を飼うため、群れを連れて国土を縦断してきました。何万頭という羊が、毎年同じ線をたどって歩く。その線は、誰かが最初に設計したものではありません。羊と人が繰り返し踏んだから、そこが踏み固められ、草が減り、跡が残った。そして何百年もあとになって、王権がその跡を追認し、幅を定め、法的な通行路として保護したのです。

私はここに、人間のやることの本質がよく出ていると思います。制度は道をつくりません。制度は、すでに歩かれてしまった跡を、あとから確認するだけです。医師免許という道も、日本食ビジネスという道も、私が20代に見ていたときは「先にある制度」に見えていました。しかし実際に自分が歩いてみると、順序は逆でした。歩いた人がいたから制度になったのであって、制度があったから人が歩けたのではない。

だとすれば、66歳から新しく何かを始めることに、道がないのは当たり前です。羊飼いの一年目にも、道はなかったのですから。


司馬遼太郎の「街道」と、英国のフットパス

司馬遼太郎の『街道をゆく』を読み返していて、いつも感心するのは、彼が「街道」を線ではなく人の堆積として見ていることです。彼にとって街道とは、そこを通った商人や僧や兵の記憶が層になったもので、地面そのものにはあまり関心がありません。四国の遍路道も同じで、あの道が道であるのは、歩いた人の数が多いからです。

英国に住んでみて驚いたのは、これが日本では文学的な比喩であるのに、こちらでは法律の話だということでした。

英国のパブリック・フットパス(public footpath)は、他人の私有地であっても、人々が長年歩き続けてきた事実があれば通行権として認められ、地図に登録されます。麦畑の真ん中を、細い踏み跡が一直線に横切っている光景をよく見かけますが、あれは地主の好意ではなく権利です。歩く人が絶えれば、その権利は消えていきます。つまり英国では、道は歩き続けることによって存在し続けるのです。

マチャードの一行を、法制度としてそのまま実装したような話です。日本の街道が「かつて歩かれた記憶」として尊ばれるのに対し、英国のフットパスは「いま歩かれていること」を要求してくる。私はこの違いが好きです。というのも、後者のほうが、老人に対してずっと厳しく、そして親切だからです。歩かなくなった道は消える。だから今日も歩け、と言われている気がします。

砂の上に残された足跡を、真上から見下ろしている

足跡は、歩いた人にしか残せません。そして砂の上のそれは、いずれ波に消されます。それでも歩いた事実そのものは消えない、というのがこの歌の言っていることだと私は受け取っています。

Photo by Maxime Horlaville on Unsplash


歌は、老後の心と体をどう整えているか

まず、体のほうから正直に書きます。

66歳になって一番はっきり変わったのは、歩幅です。距離が歩けなくなったのではありません。一歩が短くなったのです。英国の家の前の小道を、以前と同じつもりで歩いているのに、同じ電柱に着くまでの歩数が増えている。これに気づいたときは、正直こたえました。

そこで私は、朝の散歩に「Cantares」を持ち出すことにしました。この曲はテンポが速くありません。ゆっくりした三拍子で、急かしません。イヤホンでこれを流しながら歩くと、拍に合わせて自然に一歩が伸びます。速く歩こうとすると膝が痛みますが、大きく歩こうとすると、なぜか痛みません。というのも、速さは関節に負担をかけますが、歩幅は股関節と体幹の使い方の問題だからです。

あわせて続けているのが、千年灸です。膝の外側、膝蓋骨の下から指四本分ほど下がったところにある足三里に、週に二度すえています。歩いたあとに軽く熱を通しておくと、翌朝の立ち上がりが違う。東洋医学を学んだ人間として、足三里が古来「歩く人のツボ」として扱われてきたことは知っていましたが、自分の脚で確かめたのは60代になってからです。知識が体験になるのに40年かかりました。

心のほうは、もっと単純です。この歌は、私に今日の分だけを歩けばよいと言ってくれます。老後の不安の多くは、まだ来ていない先の道を先回りして心配することから生まれます。先に道がないのだと言い切ってくれる歌があると、先を心配する対象そのものが消えるのです。


歌にお金をかける、その理由

年金生活で音楽にお金をかけることには、後ろめたさがあります。

私の場合、支出は地味なものです。スペイン語圏の音楽を聴くためのサブスクリプション、日本語訳の詩集、原詩を確かめるための対訳本、そして日本と英国を行き来する荷物の中で本が占める重量。安くはありませんし、何かが生産されるわけでもありません。庭のローズマリーのように、あとで摘んで料理に使えるわけでもない。

それでも続けているのは、これが理解の速度を上げるからです。66歳の私は、新しいことを覚える速度では20代に到底かないません。しかし、一つのことを深く分かるまでの速度は、若い頃より明らかに速くなっています。なぜなら、比較する材料が体の中に大量にあるからです。マチャードが妻を失ってから書いた一行を、私は説明されなくても分かります。分かるだけの年数を生きてしまったからです。

この「速く深く分かる」という体験は、お金では買えません。しかし、そこにたどりつくための入口――一枚のアルバム、一冊の詩集――には値段がついています。私が払っているのは、入場料だと思っています。中で何が起きるかは、こちらの人生が決める。それは私がすでに持っているもので、無料です。

だからこの支出は、消費ではなく、すでに払い終えた66年分の学費の、利息の受け取り口座を開く手数料のようなものだと考えています。


歌が連れてきてくれる新しい出会い

この一年で、歌が私に連れてきた出会いを3つ挙げます。

一つ目は、地元の図書館の司書さんです。スペイン語の詩の対訳本を探していると相談したら、彼女は「うちにはないけれど、州の相互貸借で取り寄せられます」と言って、実際に3週間後に取り寄せてくれました。渡してくれるときに、「私はこの詩人を知らないので、読んだら何が書いてあったか教えてください」と言われました。次に行ったとき、5分ほど話しました。彼女の仕事は本を貸すことであって、感想を聞くことではありません。それでも聞いてくれた。

二つ目は、大阪に滞在していたときに立ち寄った中古レコード店の店主です。スペインのフォークの棚を見ていたら、「その辺は動かないんですよ」と笑われました。それから20分、彼は自分が若い頃に聴いたラテンアメリカの歌手の話をしてくれました。私は一枚も買いませんでしたが、彼は最後まで機嫌よく話していました。

三つ目は、読者の方です。この連載を読んでくださっている方から、以前いただいたお便りに、こんな一節がありました。歌の記事は音が聴こえないのに、なぜか音が聴こえる、と。私はその言葉を今も覚えています。

この3つに共通しているのは、どれも取引ではなかったということです。司書さんは貸し出し実績にならない話をし、店主は売上にならない話をし、読者の方は返事を求めていませんでした。老後の人間関係の豊かさは、たぶんこの「取引ではないやりとり」がどれだけあるかで決まります。若い頃の私は、時間を投資と考えていたので、こういう時間を無駄だと感じていました。今はこれ以外に価値のあるものが思いつきません。


メロディは、衰えた記憶の外づけ装置である

ここで、この歌について私が自分で気づいたことを一つ書いておきます。

私は記憶力の低下を自覚しています。人の名前が出てこない。読んだ本の内容が、一週間で輪郭だけになる。これは60代に入ってからの、はっきりした変化です。

ところが、「Cantares」の旋律は忘れません。スペイン語はほとんど話せないのに、この曲の出だしは口をついて出てきます。そして旋律が出てくると、それにぶら下がる形で、意味のほうも一緒に上がってくるのです。

考えてみると、マチャードの詩は本来、黙って読むものでした。読むという行為で保存された記憶は、私の中では劣化が速い。ところがセラートが曲をつけたことで、同じ内容が「口ずさむ」形式に変換されました。そして口ずさむ形式の記憶は、私の中でほとんど劣化していません。

つまりセラートは、詩を広めただけではなく、詩の保存形式を、老いに強いものに変換したのだと思います。人類が文字を持つ前、長い物語を歌の形で保存していたのは、これが理由でしょう。記憶が弱い者にも運べるようにするための技術だったわけです。

これは私の実務にも使えます。覚えておきたいことは、文にせず、リズムのある短い形にする。庭の作業手順も、投資の自分ルールも、五音七音に切ってしまえば、案外落ちません。66歳になって、私は自分の頭を、性能の高い機械としてではなく、節をつけてやれば長く運べる機械として扱うようになりました。


20代の私と、66歳の私が、同じ歌を聴いて思うこと

もし20代の私がこの歌を聴いていたら、たぶん腹を立てたと思います。道がないと言われても困る、こちらは道を探しているのだ、と。医学部をやめた直後の私に必要だったのは「どこへ行けばいいか」であって、「行けば道になる」という話ではありませんでした。

66歳の私は、同じ一行を、まったく違うものとして受け取っています。あれは行き先の話ではなく、責任の話だったのだと今は思います。前に道がないということは、どこへ行っても間違いではないということです。そして自分が歩いたあとにできる線については、自分が引いたのだから、自分が引き受けるしかない。20代の私が欲しかったのは免罪符で、66歳の私が受け取ったのは所有権でした。

この違いは、若さと老いのどちらが優れているかという話ではありません。ただ、こういう読み方は、実際に長い距離を歩いてしまった人間にしかできない、というだけのことです。若い頃にはできなかった読み方ができるようになる――老いの中で、これははっきりと得たものです。

そして先のことを考えます。私の残りの距離は、20代のときより確実に短い。しかし短いことと、つまらないことは違います。むしろ、残りが短いと分かっている道のほうが、一歩ごとの解像度が上がります。今年の冬に大阪へ戻ったら、まだ歩いていない路地を選んで歩こうと決めています。台湾にも行きたい。庭のローズマリーは、来年もう一株増やすつもりです。どれも大した計画ではありませんが、大した計画でないことが大事です。大きな計画は道を先に描いてしまいますが、小さな予定は、歩いたぶんだけしか道をつくらないからです。

最後に、この連載についても一言だけ書かせてください。私はこの記事を、誰かを励ますつもりでは書いていません。ただ、同じくらいの年の方が読んだときに、「先に歩いている者がいる」とだけ思っていただければ十分です。返事はいりません。感想もいりません。私は私の速度で書き続けますので、どうぞご自身の速度で、ときどき通りかかってください。


この記事で触れたマチャードの著作はこちらです。

石田安弘 編訳『アントニオ・マチャード詩集 ― カスティーリャの原野、その他の詩』(国文社)

(Amazonのアソシエイトとして、60歳からの冒険は適格販売により収入を得ています。)

アントニオ・マチャード『フアン・デ・マイレーナ』(杉山武 訳/法政大学出版局・叢書ウニベルシタス)

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ほかにも、こんな本があります

よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。

『東から西へ ― 俳句のこころ、聖書のひかり ―』(村井弘 著)

道は歩くことでしかできない、というマチャードの一行と、俳句のことばで「今」を見つめ続けた本作の眼差しは、どこか通じるところがあります。これは私の義父の遺作です。

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『白内障手術体験記 ― 英国在住者が大阪で自費手術を受ける』(南晴人 著)

こちらも、66歳になって経験した新しい体験を綴った一冊です。

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『英国寿司ビジネス奮闘記(小説版)』全4巻(南晴人 著)

29歳でロンドンへ渡り、寿司ひとすじに35年。見習いから工場長、そして寿司教室までを描いた小説シリーズです。

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