🎧 対談で聴く(二人が語り合う、この記事の感想・解説)

この音声は、本文の内容をもとにGoogle NotebookLM(Gemini)が生成したAI音声解説です。二人のキャスターが感想や解説を交えて語り合う対談形式の音声で、本文をそのまま読み上げるものではありません。

夜のガーデンに灯る、静かな明かり

Photo by DOKYUNG KIM on Unsplash

曲との出会い

はじめてこの曲を耳にしたのは、たしかロンドンに来てまだ日が浅かった頃だったと思います。クイーンの『華麗なるレース』というアルバムの、一番最後に置かれた曲でした。ギターの穏やかなアルペジオに続いて、サビでふいに日本語が聞こえてきたときの驚きは、今でもよく覚えています。「手をとりあって このまま行こう」――異国の地で暮らし始めたばかりの私にとって、その日本語の響きは、まるで誰かにそっと肩を叩かれたような、不思議な安心感がありました。

この曲は、クイーンが1970年代半ばに来日公演をおこなった際の経験から生まれたと言われています。ブライアン・メイが日本のファンとの間に感じた強い結びつきを曲名に込め、通訳を務めていた方の手で日本語詞がつけられました。世界的に大成功する直前の、まだ手探りだった時期のバンドが、遠い異国で受け取った歓迎に応えるようにして生まれた曲だと知ったのは、もう少し後になってからのことです。

20代の頃には持てなかった発想

20代の私は、国立大学の医学部に籍を置きながらも、将来の道について迷いを抱えていました。目の前のことに精一杯で、「離れていても繋がっている」というようなテーマの歌を聴いても、正直なところ、それがどれほど重い意味を持つ言葉なのか、実感としてはよく分かっていなかったように思います。当時の私にとって「別れ」は、まだ抽象的な概念でしかなく、具体的な誰かの顔を思い浮かべて聴くことはありませんでした。

医学部を離れる決断をし、その後ロンドンに渡って日本食ビジネスの世界に飛び込んでいったとき、私は物理的にも精神的にも、それまでの人間関係の多くから距離を置くことになりました。家族、友人、故郷の景色――そのすべてを一度は手放すようにして、新しい生活を築いていったのです。あの頃の私は、離れることの痛みよりも、前に進むことの高揚感の方を強く感じていました。

生命をめぐる小さな問い

この曲が静かに問いかけてくるのは、「私たちは、離れてしまった人たちと、本当に切り離されてしまうのだろうか」ということだと思います。仏教には「愛別離苦」という言葉があります。愛する者といつか必ず別れなければならない、という人生につきものの苦しみを指す言葉です。

私は母を高校生のときに、父を大学生のときに亡くしています。ただ、当時の私は目の前の悲しみに追われるだけで精一杯で、それがどれほど深い意味を持つ苦しみなのか、立ち止まって考える余裕がありませんでした。しかし66年生きてきた今、私はこの苦しみに、あの頃とはまったく違う形で向き合うことになっています。60代になる前後からは、新型コロナウイルスの影響もあって、妻の両親や親しい友人を数人、立て続けに見送ることになりました。そのたびに、「もう会えない」という事実の重さを、若い頃よりずっと具体的な痛みとして感じるようになっています。けれども同時に、この曲が歌っているような、「同じ月を見ていれば、時間も距離も本当の意味では隔たりにはならない」という考え方に、以前よりずっと自然に頷けるようになった自分にも気づくのです。

66歳の今、聴こえてくるもの

今、私は英国と大阪を行き来する二拠点生活を送っています。冬は日本で過ごし、それ以外の季節は英国の庭で過ごす――この暮らし方そのものが、ある意味では「離れていても繋がっている」ことの実践のようなものかもしれません。

英国の庭には、10種類以上のデイヴィッド・オースティンの薔薇を育てています。冬の間、私が日本にいて庭を離れているあいだも、薔薇たちは静かにそこに在り続け、春になれば私が戻るのを待っていたかのように花を咲かせます。この曲の「静かな宵に、光を灯し」という一節を思い出すとき、私はいつも、誰も見ていない冬の庭で静かに次の季節を待つ薔薇の姿を重ねてしまいます。離れているあいだも、想いを灯し続けることはできる――そんな確信を、薔薇たちが教えてくれるような気がするのです。

投資の世界に足を踏み入れたのは2015年、50代半ばのことでした。株式や不動産という「今すぐには結果の見えないもの」に長期的に向き合う経験は、私に「今この瞬間だけがすべてではない」という感覚を教えてくれました。目先の値動きに一喜一憂せず、何年も先を見据えて種を蒔く――この態度は、離れて暮らす人との関係にもどこか似ているように思います。今すぐ会えなくても、想いを手入れし続けることに意味がある、という点で。

リタイア後は、日本にいるあいだにタイやフィリピンといったアジア各国へも足を延ばすようになりました。言葉も文化も異なる土地で出会った人々と、たとえ二度と会うことがなくても、あの時交わした短い会話や笑顔が、今も自分の中に確かに残っている――そのことに気づくたび、この曲が歌う「時間はただの見せかけのようなもの」という感覚が、私の実感としてよみがえってきます。

英国という国は、感情を大きく表に出さない文化を持つと言われます。「Keep Calm and Carry On」という言葉に象徴されるような、静かな忍耐の美学です。一方、日本にも「間(ま)」という、言葉にしない余白を大切にする感性があります。この曲のサビで、英語と日本語という二つの言語が、まったく同じ想いを異なる響きで重ねて歌っているのを聴くたびに、私は「言葉にしなくても伝わるもの」を大切にする、この二つの国の文化の奥底に流れる共通点を感じずにはいられません。

フレディ・マーキュリーの生涯を、本人の未公開資料とともに振り返った評伝として、『ア・ライフ・イン・リリックス A LIFE IN LYRICS』も、この曲が生まれた時代背景を知るのに興味深い一冊でした。フレディ自身が生涯にわたって書き溜めた歌詞の草稿やスケッチ、未公開写真をもとに、生涯の親友メアリー・オースティンが思い出を添えてまとめた一冊です。よろしければあわせてどうぞ。

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むすびに

この曲がロンドンの自宅で書かれたのではなく、日本のファンとの出会いの中から生まれたという事実そのものが、私にはとても示唆的に思えます。国境を越えた、言葉すら通じ合わない出会いの中から、これほど深い結びつきの歌が生まれた――それは、離れていることと、繋がっていないことは、決して同じ意味ではないのだ、ということを教えてくれているように思うのです。

対話がなくても、「同じ景色を見ている人がいる」と感じてもらえるなら、それは十分な繋がりだと考えています。もしこの記事を読んでくださっているあなたが、今、大切な誰かと離れて暮らしていたり、あるいはもう会うことのできない誰かを想っていたりするとしたら――同じ月が、今夜もきっとあなたの上にも輝いているはずです。そのことを、この曲は静かに、けれど確かに伝えてくれます。

参考リンク

ほかにも、こんな本があります

よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。

『東から西へ ― 俳句のこころ、聖書のひかり ―』(村井弘 著)

離れていても繋がっていられる、という今回の記事のテーマに通じるものを、この句集にも感じます。これは私の義父の遺作です。

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『白内障手術体験記 ― 英国在住者が大阪で自費手術を受ける』(南晴人 著)

こちらも、66歳になって経験した白内障手術という新しい体験を綴った一冊です。

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『英国寿司ビジネス奮闘記(小説版)』全4巻(南晴人 著)

29歳でロンドンへ渡り、寿司ひとすじに35年。見習いから工場長、そして寿司教室までを描いた小説シリーズです。

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クイーンについて(プロフィール・経歴)

クイーンは1970年、ロンドンでフレディ・マーキュリー(ヴォーカル)、ブライアン・メイ(ギター)、ロジャー・テイラー(ドラムス)、後にジョン・ディーコン(ベース)が加わって結成されたロックバンドです。フレディ・マーキュリーは、当時の英国領ザンジバル(現タンザニア)でペルシャ系インド人(パルシー)の家庭に生まれ、少年期をインドで過ごした後、家族とともに英国へ移住しました。異なる文化圏を渡り歩いた生い立ちは、後の彼の演劇的で境界を軽やかに越えていくパフォーマンススタイルに大きな影響を与えたと考えられています。

「テオ・トリアッテ」を作詞作曲したブライアン・メイは、ロンドン大学インペリアル・カレッジで物理学を学んだ理系出身のミュージシャンとしても知られ、緻密なコード進行と情感豊かなメロディを両立させる作風を持っています。1976年発表のアルバム『華麗なるレース』は、前作『オペラ座の夜』の世界的成功を受けて制作されたもので、その最後を飾るこの曲には、日本のファンへの感謝の気持ちが込められました。

クイーンが活動を始めた1970年代前半の英国は、オイルショックや労働争議による経済的混乱の時代でもありました。そうした先行きの見えない社会情勢の中で、クイーンは既存のロックの枠組みにとらわれない、オペラ的な壮大さとポップな親しみやすさを併せ持つ音楽性で若者たちの支持を集めていきました。一方、当時の日本は高度経済成長の終盤にあり、海外文化への憧れが強い時代でした。地方都市まで丁寧に公演を重ねたクイーンの姿勢は、多くの日本のファンの心をつかみ、バンド自身にとっても、本国以上に熱狂的な歓迎を受けた特別な国として、日本は特別な存在になっていきました。

フレディ・マーキュリーは1991年、45歳でこの世を去りましたが、生前は多くを語らなかった日本への深い愛着は、彼の自宅に作られた本格的な和室や日本庭園、そして「テオ・トリアッテ」という曲そのものの中に、静かに、しかし確かに残されています。