英国でビジネスに携わってきた者として、柳井正さんの『一勝九敗』をきっかけに、66歳の私が実際にやってみていることを体験談としてまとめました。ユニクロを一軒の紳士服店から世界的な企業に育て上げた経営者が、成功物語ではなく、むしろ「十回挑戦して九回は失敗した」という比率をタイトルに掲げていること自体が、異例だと感じます。66歳になり、大きな事業からは退いた今の私にとって、この本は「経営書」としてよりも、「挑戦と失敗をどう引き受けて生きるか」についての本として響きました。
十本の分かれ道のうち、まっすぐ育つのは一本だけ。それでも十分だ、という「一勝九敗」のイメージです。
「一勝九敗」という比率を受け入れる実践
著者は本の中で、自分が手がけた新規事業のほとんどが失敗に終わったことを率直に記しています。海外一号店の撤退、フリースのインターネット販売の不振、スポーツ用品や野菜販売への進出とその失敗。それでも会社が成長し続けたのは、十回のうち九回失敗しても、残る一回の成功を大きく育てられたからだ、という考え方でした。
これは、私自身のレストランや食品製造拠点を各国で立ち上げてきた経験とも重なります。当時は「失敗」という言葉を避けて、成功事例だけを振り返りがちでした。しかし今、66歳になって過去を棚卸ししてみると、実際にはうまくいかなかった出店や提携のほうが数としては多かったのです。今は、新しいことを始める前に「これは十回のうちの一回になれば十分」と声に出して自分に言い聞かせるようにしています。老いてから何かを始めるとき、失敗を恐れて動けなくなる一番の理由は、「一回で成功しなければならない」という思い込みだと気づいたからです。
「成功はゴミ箱に捨てる」実践
著者は、過去の成功にしがみつくことが最大の危険だと繰り返し述べています。フリースが大ヒットした後も、その成功体験に安住した部署から次の停滞が始まった、という指摘は印象的でした。成功は、それを味わったらすぐに手放すべきものだ、という姿勢です。
66歳の私にも、若い頃の武勇伝が何度も心の中で再生される瞬間があります。しかし、それを繰り返し語ることと、それに寄りかかって新しい挑戦をやめてしまうことは別だと、この本を読んで区別できるようになりました。今は、温室でトマトの新しい品種に挑戦したり、投資でこれまで手を出していなかった業種を少額から調べてみたりと、「過去に得意だったこと」ではなく「まだ慣れていないこと」を意識的に一つ持つようにしています。老境を楽しむというのは、過去の実績を誇ることではなく、まだ知らないことに手を伸ばし続けることなのだと感じています。
過去のトロフィーをそっと手放し、隣の温室で新しい苗を育てる。成功に安住しない姿勢を表しています。
経営計画を人生設計に応用する実践
本の中で著者は、経営計画を「紙に書いて初めて意味を持つ」ものだと強調しています。頭の中で考えているだけの計画は計画ではなく、単なる願望だ、という指摘です。数値目標と、それを達成するための具体的な行動計画をセットで書き出すことの大切さが繰り返し語られていました。
お金の心配というのは、多くの場合「漠然としている」ことそのものが不安の正体だと思います。今は、著者にならって、資産の状況と今後数年の生活費の見通しを、実際に紙(もしくはスプレッドシート)に書き出す時間を月に一度取るようにしています。数字にしてしまえば、漠然とした不安は「対処すべき具体的な課題」に変わります。健康寿命を延ばすためにも、お金の不安を放置しないことは、身体の健康と同じくらい大切な習慣だと考えるようになりました。
「悪口を言ってもらう」姿勢を人間関係に応用する実践
本の中で紹介されている、顧客からの厳しい意見をあえて集めたキャンペーンのエピソードは、この本の中でも特に印象に残る部分です。都合の良い声だけを聞いていては、会社の本当の弱点は見えてこない、という発想でした。
人間関係の苦しみの多くは、耳の痛いことを言われることそのものよりも、「言われないように、言われないように」と身構え続ける疲れから来ているように思います。私は今、気の合わない相手や、正直あまり会いたくない相手と会わなければならないときほど、あらかじめ「この人は何を心配しているのだろう」と一つだけ考えてから会うようにしています。相手の言葉を「攻撃」ではなく「情報」として受け取る練習です。すべての人間関係がこれで楽になるわけではありませんが、身構える時間そのものは確実に短くなりました。
とげとげしい吹き出しが、少しずつ穏やかな形に変わっていく様子。厳しい言葉を「攻撃」ではなく「情報」として受け取る練習です。
「実験・検証・撤退」サイクルの実践
著者は、うまくいくかどうか分からない事業は、まず小さく試し、結果を見て、だめならすぐに撤退することを徹底していたと書いています。だらだらと続けることこそが、最大の時間の無駄になる、という考え方です。
66歳からの「再就活」というと大げさに聞こえますが、私にとってのそれは、新しいブログ記事の書き方を試したり、寿司の技術をビデオ講座という形にしてみたりすることです。以前は、始めるからには完璧な計画が必要だと思い込んでいましたが、今は「まず小さく試し、うまくいかなければ次に進む」というサイクルを短く回すようにしています。わくわくしながら毎日を生きるというのは、大きな成功を待つことではなく、小さな実験を絶やさないことなのだと、この本から教わりました。
「人間性を尊重する」実践
ファーストリテイリングの経営理念には、社員一人ひとりの人間性を尊重するという条文があります。数字を追う経営者の言葉としては、意外なほど人間そのものに重きを置いた一節でした。
善とは何か、幸せとは何かという問いに、私はまだ明確な答えを持っていません。ただ、この一節を読んでから、メグ(我が家の猫)を撫でながら、あるいは畑で作業をしながら、「今日、目の前にいる人や生き物にどれだけ丁寧に接することができたか」を一日の終わりに振り返る習慣ができました。あらゆる命がどこから来てどこへ行くのかという大きな問いに答えは出せなくても、目の前の一つひとつの関わりを丁寧にすることは、今日からでもできることだと感じています。
夕暮れの畑にたたずむ猫のメグ。一日の終わりに、目の前の存在とどれだけ丁寧に向き合えたかを振り返る時間です。
一勝九敗は、老いにも当てはまる
この本を読み終えて感じたのは、「一勝九敗」という比率は、事業だけでなく、老いていくという経験そのものにも当てはまるということです。できなくなることのほうが、できるようになることよりずっと多い。それでも、その九つの「敗」の中から、一つでも新しい楽しみ方や生き方を見つけられれば十分だ、と考えられるようになったことは、この本からの一番大きな贈り物だったように思います。今を生きるというのは、九敗を数えることではなく、残った一勝を大切に育てることなのかもしれません。
今回ご紹介した本はこちらです。
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ほかにも、こんな本があります
よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。
『東から西へ ― 俳句のこころ、聖書のひかり ―』
俳句のことばと聖書の光を行き来しながら、東と西の精神性を静かに見つめたエッセイです。日本の詩情と聖書の世界が、思いがけないところで響き合う一冊です。これは私の義父の遺作です。
Amazonで見る『白内障手術体験記 ― 英国在住者が大阪で自費手術を受ける』
大阪での両眼の白内障手術を、英国と日本の二拠点生活を送る66歳の視点から、率直に綴った体験記です。レンズ選びから費用、術後の見え方まで、実際に経験したことをそのまま記録しました。
Amazonで見る柳井正という人と、その時代
柳井正さんは1949(昭和24)年、山口県宇部市に生まれました。私自身が1960年に北海道で生まれたのと同じく、戦後復興から高度経済成長期へと向かう日本の空気の中で育った世代です。父親が経営する小さな紳士服店という、堅実だが決して華やかではない家業のもとで育ち、早稲田大学を卒業した後、大手スーパーに一度就職するもののすぐに退職し、内心では気が進まないまま父親の会社に入社したという経緯が本の中でも率直に語られています。豪胆だったという父親と対照的に、著者自身は内気な性格だったと自ら記しており、この「継ぎたくなかった家業を、圧倒的な事業へと育て上げた」という出発点そのものが、彼の思想の土台になっているように感じます。
1984年、広島に第一号店を出店してから1990年代のフリースブーム、株式上場、海外展開の失敗と再挑戦へと至る20年間は、日本経済にとってはバブル崩壊とその後の停滞期にあたります。多くの企業が守りに入った時代に、柳井さんはむしろ「実験と撤退を高速で繰り返す」という、当時の日本企業には珍しい経営スタイルを貫きました。カリスマ的な人脈や勘に頼るのではなく、経営計画を紙に書き、理念を23条という形で言語化するという「仕組み化」への強いこだわりは、内向的でカリスマ型のリーダーシップを得意としなかった彼自身の性格が、逆説的に生み出したものだったのかもしれません。成功した経営者が自らの失敗の多さをタイトルに掲げて公にすること自体が異例であり、そこには、勝つことよりも「なぜ負けたか」を記録し続けることに価値を置く、静かだが徹底した人物像が浮かび上がってきます。