🎧 対談で聴く(二人が語り合う、この記事の感想・解説)
この音声は、本文の内容をもとにGoogle NotebookLM(Gemini)が生成したAI音声解説です。二人のキャスターが感想や解説を交えて語り合う対談形式の音声で、本文をそのまま読み上げるものではありません。
英国で暮らし始めて、もう35年以上になります。ロンドンの日本食レストランの厨房から始まった私の英国生活は、いつの間にか和食ビジネス、鍼灸漢方クリニック、そして不動産投資へと形を変えながら続いてきました。65歳でリタイアした今、日本と英国を行き来する二拠点生活のなかで、あらためて気づいたことがあります。それは、長年当たり前のように食卓にあった「英国の名品」たちが、実は私たちの暮らしにとても静かに、けれど深く効いていたということです。
その代表格が、今日ご紹介するティップツリー(Tiptree)のリトルスカーレット ジャムです。

Wilkin & Sons社のリトルスカーレット ジャム。ラベルには王室御用達の紋章が入っています。
一見すると、ただの高級イチゴジャムです。けれど、その小さな瓶の中には、19世紀から続く一つの家族の物語と、老後の暮らしを考えるうえでのヒントが、たっぷり詰まっているのです。
世界でただ一つの畑 ― ウィルキン家と「リトルスカーレット係」
1885年創業のウィルキン&サンズ社(Wilkin & Sons)。エセックス州ティップツリー村に本拠を構えるこの老舗ジャムメーカーが、「ジャムの女王👑」の異名を持つリトルスカーレットジャムを世に送り出しています。
原料となる「リトルスカーレット」という苺は、1ペンス硬貨ほどの大きさしかありません。もともとは北米大陸の開拓時代に野生で自生していた品種で、当時アメリカを訪れたウィルキン氏がその苗を見初め、イングランドに持ち帰って栽培を始めたのが始まりだと言われています。
栽培も収穫もすべて手作業。実が非常にデリケートなため、商用として育てているのは今も世界でこの自社農園ただ一つだけです。農園には「リトルスカーレット係」という専任の担当者がいて、その人は来る日も来る日も、この一種類の苗を育て、植え、世話をすることだけに人生の時間を注いでいるのだそうです。
この話を初めて聞いたとき、私は日本の伝統工芸の世界を思い出しました。一つの技だけをひたすら磨き続ける職人、代々ひとつの窯を守り続ける陶芸家。効率や規模の拡大とは正反対の場所に立ちながら、それでも「これしかない」と決めた一つのことに人生を捧げる生き方です。司馬遼太郎の作品に出てくる職人たちのように、リトルスカーレット係の人もまた、小さな赤い実の中に自分の仕事の誇りを見出しているのかもしれません。世界でたった一か所でしか育てられないものを守り育てる仕事には、規模には換算できない豊かさがあるように思います。
王室とジェームズ・ボンドが愛した味
リトルスカーレットジャムは英国王室御用達(ロイヤルワラント)の称号を持ち、故エリザベス女王も毎年召し上がっていたと言われています。さらに、イアン・フレミングの小説『007 ロシアより愛をこめて』では、主人公ジェームズ・ボンドが朝食のトーストにこのジャムを塗るシーンが描かれており、彼のお気に入りとしても知られています。
王室からスパイ映画の主人公まで、立場も時代も違う人々を惹きつけてきた一瓶のジャム。世界中の高級ホテルの朝食会場には、必ずと言っていいほどこの小瓶が置かれています。それだけ長く、多くの人に選ばれ続けてきたということ自体が、この商品の「本物」らしさを物語っているように感じます。
心と体を整える、小さな儀式
東洋医学の世界に長く身を置いてきた私にとって、「体を整える」ことと「心を整える」ことは、切り離せないものです。鍼灸や漢方の現場でも、結局のところ一番の薬は「毎日の暮らしの質」だったりします。
我が家では、毎年7月頃になるとティップツリーの公式サイトをチェックする習慣があります。その年の新物のリトルスカーレットジャムが発売されると、まず注文し、届いたその日のうちにスコーンとクロテッドクリームを買いに走ります。ジャムが届く、スコーンを焼く、紅茶を淹れる ― この一連の流れそのものが、私たち夫婦にとって季節の節目を感じる小さな儀式になっています。

スコーン、ティップツリーのミニジャム(Strawberry with Champagne)、クロテッドクリームが並んだクリームティー。
年齢を重ねると、集中力や記憶力の衰えを感じる場面が増えてきます。けれど、こうした「季節を待つ楽しみ」や「決まった儀式を丁寧に繰り返すこと」は、認知機能にとっても悪くない習慣だと感じています。何かを心待ちにする力、五感を使って味わう力、それを大切な人と分かち合う力。名品はその小さなきっかけを、毎年律儀に運んできてくれる存在なのです。
名品はぜいたくか、それとも投資か ― 年金生活者のジレンマ
正直に言えば、こうした英国の名品は決して安くはありません。年金生活者にとって、毎年決まった「ぜいたく品」に予算を割くことに、経済的な重圧を感じる瞬間もあります。「もっと安いジャムでもいいのではないか」という声が、頭のどこかで聞こえてくることもあります。
それでも私たちが、この一瓶を選び続けている理由は何なのか。長年考えて、今のところの答えはこうです。
名品の価格には、「モノ」の代金だけでなく、「時間」と「物語」の代金が含まれています。世界に一つしかない畑で、リトルスカーレット係がその年も丁寧に苗を育て、社員総出で手摘みし、収穫したその日のうちに銅鍋で仕上げる ― その一連の営みを、私たちは瓶を開けるたびに追体験しているのです。安価な代替品では決して買えない、この「物語ごと味わう」という体験こそが、お金以上の価値だと感じています。
老後の暮らしにおいて、名品がもたらしてくれるのは、単なる満足感だけではありません。「今年も無事にこの季節を迎えられた」という、ささやかな達成感と安堵感。それは、健康寿命を考えるうえでも軽視できない心理的な豊かさだと、私は思っています。もちろん、すべての名品を無制限に買い続けることはできません。だからこそ、自分にとって本当に大切な一品を厳選し、それに対しては惜しみなく向き合う ― そんなメリハリの利いた付き合い方が、年金生活者なりの名品との賢い距離感なのかもしれません。
新しい出会いが彩る、英国のティータイム
名品との付き合いは、モノだけにとどまりません。私たちは実際に、ロンドン郊外エセックス州のティップツリー村にある自社農園と工場を訪れたことがあります。

ティップツリー村、ウィルキン&サンズ社のティールーム入口。木組みのポーチと看板が出迎えてくれる。
車で村に入ると、苺の絵が描かれた可愛らしい看板が出迎えてくれます。見渡す限りに広がる果樹園を眺めながら敷地内へ進んでいくと、工場の煙突からジャムの甘い香りが漂ってきます。工場の裏手にあるティールームでいただいたアフタヌーンティーは、ロンドンの高級ホテルでは決して味わえない、本場感・地元感にあふれた特別な体験でした。3段トレーのトラディショナルアフタヌーンティーが2人分で£50。ロンドンの五つ星ホテルでは1人£75〜100が相場ですから、半額以下という良心的な価格にも驚かされます。

エセックス州内に点在する、ティップツリー・ティールームの所在地マップ。全部で7店舗あるのだそう。
工場の隣にはウィルキン&サンズ社のミュージアムが併設されており、無料でティップツリーの歴史を見学することもできます。実はティップツリーのティールームは、この本店だけでなく、エセックス州内に全部で7店舗も点在しているのだそうです。地図を眺めながら「次はどの村のティールームに行こうか」と考えるのも、私たちにとっては小さな楽しみの一つです。地元の方々にとっては日常の憩いの場でもあり、私たちがそこで交わした店員さんやお客さんとの何気ない会話も、旅の記憶として今も鮮やかに残っています。
一つの名品を深く知ろうとすることは、その背景にある土地や人と出会うきっかけをくれます。日本にいながらインターネットで注文するだけでも十分満足できますが、こうして現地まで足を運び、作り手の暮らす村の空気を吸い、地元の人々と言葉を交わす経験は、老後の生活に新しい人間関係と新しい景色を運んできてくれます。旅先で誰かと言葉を交わすたびに、私は「まだまだ知らない世界がある」と感じ、それが次の旅への活力になっています。
むすびに
一粒の小さな苺から作られる、一瓶のジャム。そこには、一つの家族が140年以上守り続けてきた技と誇り、王室やスパイ映画の主人公まで魅了してきた実力、そして私たち夫婦にとっての季節の儀式と旅の思い出が詰まっています。
老後の暮らしにおいて、名品と付き合うことは、単なる消費ではなく、「心と体を整えること」「お金以上の価値を見出すこと」「新しい人や場所と出会うこと」という三つの意味を同時に運んできてくれるものだと、私は感じています。次にスコーンにジャムを塗るとき、ぜひその一瓶の向こうにある物語にも、少し思いを馳せてみてください。
次回は、英国のもう一つの名品をご紹介する予定です。お楽しみに。
ほかにも、こんな本があります
よろしければ、こちらもご覧いただけると嬉しいです。